六拾弐番 サピオセクシャル、サピオロマンティックの予感

【62番目のうた】

夜をこめて鳥の空音は謀るとも
よに逢坂の関は許さじ

【意訳】

夜が明けたと、鶏の鳴きマネをして、私をだまそうとしても
この逢坂の関は許しませんよ。
決して逢いませんよ。

【作者 清少納言 せいしょうなごん】

学者の家に生まれ、子供の頃から天才ぶりを発揮し、橘則光(たちばなののりみつ)との離婚後、一条天皇の皇后定子に仕えました。名エッセイ「枕草子」を書いた才女です。

【味わい】

そのまま読んでも、なんのことを言っているのか伝わってこない歌です。
この前後に藤原行成とのやりとりがあり、中国の故事を引用しあったりして、その応酬の途中がこの歌です。

さらに「逢坂の関」とは「男女の一線を越える」ことを隠喩してますが、行成と清少納言が「越える」「ゆるさない」「越えちゃうぞ」と二人だけがわかる世界でイチャイチャしているのを鑑賞して、我々はなんか楽しいのでしょうか。

【ご宣託】

サピオセクシャル、サピオロマンティックの世界で恋愛を楽しめる予兆が出ています。サピオセクシャルとは恋愛相手の外見や性格ではなく、「知性」に惹かれるセクシャリティを意味します。知的な会話ができるとか、知性を感じる文章を書いた人に性的魅力を感じる性的志向を指しています。サピオロマンティックとは、同様に「知性」に魅力を感じるものの、それが性というより恋愛感情につながる志向です。

現代はメールやラインやSNSなど、直接的な会話よりも「文章」で他者と交流することが多くなりました。文章は会話よりも、より顕著に知性が表れるものです。ラインでの趣味のあう応酬で心がグッと近づく経験をしたことがある方もいるのではないでしょうか。

一方、平安時代も「歌の技巧が素晴らしい」相手と恋に落ちてしまうのが貴族文化。そういう点で平安時代と現代の恋愛は共通点が増えてきているのです。

この歌はそんなサピオセクシャル/ロマンティックな恋の予感を表しています。スマホを眺めてニヤニヤしながら、高速で返信する。そんな楽しい相手とめぐりあいの予感です。